追跡
第二節 雪の夜
きらきら、煌く夜空の星。
君の瞳の中に、煌く星はあるかい?
君はいまだ知らない夜空の星。
ゆっくり、ゆっくりでいい。
知っていこう。
僕たちが輝ける理由を。
探していこう。
百鬼朔野の姉――百鬼咲野が、予告なく斉藤大将の執務室に訪れてからの翌日。一月十五日のことだった。斉藤から命令が下った。
ガラヴァスディ合衆国の首都にある「世界学校」法人ガブリエル財団会長――内羽鉱太郎氏が、芒星国にある国立レンゼル学園に会談に来るという。
当初はガラヴァスディ合衆国軍から、護衛団が派遣されるはずだった。しかし、最近ガラヴァスディ合衆国内でテロが頻発し、その対策によって、人員が大幅にテロ対策に持って行かれた。
ガラヴァスディ国内で頻発しているテロの特徴を、ガラヴァスディ情報局が洗い出した結果、次にテロが起きる可能性が高いのは、レースト国際空港だった。
しかも、この空港は今回の視察のために、内羽氏が利用する空港でもあった。
世界学校の中から、「テロが頻発しているのだから、他の国に渡航するのは避けるべきだ」という声も出たには出た。
しかし、テロに屈することをガラヴァスディ合衆国の大統領――エドワード・マートン氏が許さなかった。そして、内羽鉱太郎氏もその声を退けた。
内羽鉱太郎氏曰く、「今年度は、国立レンゼル学園の創立六十周年でもあり、世界学校と国立レンゼル学園の共同で企画しているカリキュラムを急がなければいけない」ということ訳もあり、尚且つ、そのカリキュラムは、ガラヴァスディ合衆国にとっても利益なことで、積極的に援助している。ここで、テロを恐れて、今回の会談を取りやめば予想以上の損害が考えられるのだ。ガラヴァスディ合衆国の要人たちは、内羽氏を始めとする世界学校の校長や、エドワード・マートンの説得により、渋々と承諾した。
こうして、様々な理由により、内羽鉱太郎氏の芒星国の来訪は強行されたのだった。しかし、万が一のことも恐れた大統領は、同盟国でもある芒星国に援助の要請を申請した。
皇光輝陛下は、芒星国軍の陸軍中央司令本部に伝達した。その伝達を受けた総司令官斉藤大将は、夏原篤中佐を任命し、単独でガラヴァスディ合衆国に内羽鉱太郎氏を迎えに行くことになったのだった。
この経緯を斉藤から聞いたときに、夏原は舌打ちをしたくなった。夏原は、大のガラヴァスディ嫌いだ。アレルギーと言ってもいい。その嫌悪は、凄まじいものがある。
しかし、夏原には選ばれる確かな理由があった。過去に三度ガラヴァスディ合衆国にある芒星国軍支部に勤めていたこともあり、ガラヴァスディ合衆国を熟知し、何より皇陛下が信頼する部下の一人斉藤大将の副官という理由から、夏原は選抜された。
斎藤は、絶対零度の表情で、命令文を読む夏原に苦笑を浮かべた。
夏原が過ごしたガラヴァスディ合衆国の研修中に、なにがあったのか報告を聞いて予想をつくが、夏原のガラヴァスディに対するアレルギーを悪化させるものでしかなかったが――。
斎藤は「すまないが、仕事だ」と淡々と言って、夏原にガラスヴァディ合衆国行きの航空券を差し出した。
夏原は渋々、何万匹の苦虫を噛み潰したような顔をしながら、盛大な舌打ちとため息をつき、ガラヴァスディ合衆国行きのチケットを受け取った。
斎藤の生温い視線に見送られた夏原は、いま飛行機のファーストクラスの座席に座っている。窓の外は、雲が優雅に泳いでいた。太陽の日差しが、雲に当たり、絶妙な陰影が出来ており、空が一つの芸術だった。
夏原は飛行機が嫌いなわけでも、高所恐怖所なわけでもない。ただ、ガラヴァスディ合衆国という国が、嫌いで、嫌いで、大嫌いなだけだ。
芒星国の国民の多くが、ガラヴァスディ合衆国を理想郷というイメージを抱いている。夏原の同僚もそう思っている者が多数だ。夏原はそうは思わない。あの国は、内に膿を隠している。肥大に膨れ上がった傷を、必死になって隠している。その傷の内に膿が溜まりまくっているのだ。
夏原は眉を顰め、舌打ちをした。上司である斉藤の命令でなければ、好き好んで行くような国ではない。
かつて、自分自身があの国にとって膿と見なされた。母国とも言えないところに、しかも仕事で行かなければならない自分が、本当に切ない。いっそ、この飛行機から飛び降りたい。
実行すれば「自殺」以外の何物でもないが。夏原はひっそりと苦笑を浮かべ、黒い革製の鞄から、ファイルを取り出した。これからお迎えにあがる世界学校の会長内羽鉱太郎氏のデータが記されている。ファイルから書類を取り出し、何回も読み返したデータを、じっくりと見つめる。
内羽鉱太郎氏の国籍は芒星国だが、二十二歳の時からガラヴァスディ合衆国で過ごしている人間だ。それさえも嫌悪感が滲んでしまう。
ガラヴァスディに住んでいるからと言って、その人格を否定することはしたくない。
国の指導者が非道であろうと、その国で生活する人が非道であるはずがない。生活する環境で人格を判断するのは、視野が狭い愚か者がすることだ。
俺は、そこまで落ちぶれたくない。夏原は、喉の奥でそう呟いた。
脳裏に、幼い日々が通り過ぎる。
感傷気味になっているのは、夕べ、雪が降っていたからだ。今は、雲の上。
この銀色の重苦しい鉄の塊に、太陽が照らしている。
感傷する時間はない。
「芒星国の、人ですか?」
その時、隣の席から流暢な和語が聞こえた。ふと、右隣を見ると、褐色の肌に凛々しい面立ちをしている少年が座っていた。
柔らかな栗色の髪と目が、少年を年相応に見せている。
「ええ、そうです。あなたは?」
にこり、と愛想笑いを浮かべて、訊ねる。
「僕は李壮成です」
差し出された握手、少年の顔を見比べる。ビスクドールのような無機質に整えられた美貌だった。
少年の目に敵意は含まれていない。ただ、違和感が残る瞳を少年は持っていた。
「……夏原篤だ」
幼さが残りながらも、手先にまめが出来ているほど鍛えられた手を柔らかく掴んだ。すると、少年の掴む手が一層強くなる。思わず眉をしかめそうになった。そこでようやく、少年に違和感を覚えた理由が、なんとなく分かった。
敵意はない。しかし、だからといって好意も感じられない。マグマのような複雑な感情がその瞳にギラギラとした光をたたえていた。
なるほど、ただの子どもではないわけだ。
「李壮成……ああ、李財閥の御曹司か」
夏原の呟きに真正面を向いた少年――李壮成は、ニヤリと口端を歪めた。
「そうですね」
冷ややかな口調だった。壮成に視線を移したが、すでに読んでいた雑誌に目を向けていた。
夏原は、子どもが苦手だった。どう接すればいいか分からない。だが、今の隣に座っている少年に必要なものは、何となく分かる気がした。
「利用しろ。それくらいの気概はあるだろ。李壮成」
「あははははは! あなた、言うねえ……。あなたの経験から来てるんですか、その言葉」
「……まあな」
おもむろに頷いた夏原は、読んでいた書類をファイルに入れて、鞄に仕舞った。前にあるポケットから、雑誌を取り出した。女性向けのファッション誌だったが、夏原は意に介さず、そのままファッション誌のページをめくった。
細いなあ、ちゃんと食べてるのか。――見る視点がずれている。――
壮成は、夏原の横顔を睨み、下唇を噛み締めた。
「まあ、俺のことを知りたいのなら、調べてみればいい。君のネットワークなら一日も掛からずに俺の情報など、一つ残らずに手に入るだろう」
夏原の挑発的な言葉に、壮成は目を見開いた。夏原は壮成のほうに顔を向けて、口だけに笑みを浮かばせた。背筋が、ぞくりとするような笑みだった。
その時、着陸するというアナウンスが入った。
夏原は、ゆっくりと溜め息を吐いた。飛行機から下りてしまえば、憂鬱な時間が始まってしまう。
「そうだ、そうだ」
そのとき、夏原の頭に、いい考えが浮かんだ。もし漫画としての表現を使うなら、頭のてっぺんに電球がぴかりと光ったか、びっくりマークが、ぽんと現れたかもしれない。
満足そうに、数回頷いた。壮成の目が胡乱げになった。
――頭、大丈夫か。この人。
そんな馬鹿にされると露とも思っていない夏原は、人の悪い笑みを浮かべて言った。
「宿題を出そう」
「宿題?」
壮成は小首を傾げた。
「そう、宿題」
怪訝な声を上げる壮成に、夏原は楽しそうに笑みを浮かべた。
「バルタザールは、どうして人を惑わし、人を殺したのだと思う?」
綺麗に口端を歪める。
バルタザールとは、銀の瞳と髪を持つ、世界中にある宗教で共通している邪神のことだ。神話から消された存在。神からも、人からも、魔物からも、天使からも、抹消された鬼子。
哀れで、愚かしい、そして醜悪で美麗な人の祖であると、あらゆる宗教の経典に、神話に記されている伝説の英雄であり、魔物であり、神である。
バルタザール。
創造主を愛した愚かな魔物。
人に焦がれた美麗な戦女神。
そして、人間を殺した最初の人間であり、邪神。
矛盾した存在。
消去された存在。
葛藤の存在。
対極の存在。
人そのものの存在。――それが、バルタザール。
さあ、この少年はバルタザールの、人に焦がれ、創造主を愛し、憎み、殺した理由を何と答えるか、何と位置づけるか。ああ、楽しみだ。
くすり、と夏原は少年に向かって笑って見せた。
壮成はごくりと息を飲み込んだ。なぜなら、隣に座る青年の目は、ちっとも笑っていないからだ。
「それが、宿題?」
「そうだ。それが、宿題だ」
ベルトをしっかり締めて、座席から立たないようにと、客室乗務員がアナウンスをしているのが、耳に届く。
「期限は、明日の八時まで。それを過ぎると、俺は芒星国に帰る。いいな?」
壮成は何も言わず、頷いた。
「ちょうど、退屈していたんだ」
「そうか。それは、良かった」
感情も何も篭っていない壮成の呟きに、夏原は喉の奥で笑いを噛み殺した。やはり、この少年は自分と似ている。性格ではなく、根本的なところが部分が、限りなく似ている。だから、ちょっかいを掛けたくなるのだと無理矢理に結論づけた。
飛行機が着陸し、人々が席を立ち始めた。
夏原もそれにならい立ち上がり、通路に向かった。
「念のために言っておくが、ヴァラマニ神話には「バルタザールの章」は記されていない。せいぜい君が持つ情報網を参考にして、頑張って考えてくれ」
振り向きざま、壮成に向かって手を振った。壮成は憮然とした表情ながらも振り返した。
意外に律儀な性格をしている。
「それでは、また」
そう言い残して、夏原は動き始めた人の流れに乗り、去っていった。
雑多に人の群れが行き交い、空港内のアナウンス、人が会話し、さざめく音などで、整然としているはずの空港が、どこかの下町の市場のような雰囲気を醸し出している。
空港の待ち合わせポイントで、内羽氏その人であろう人物と目が合った。ぐびり、と変な風に喉が鳴った。
なぜなら、目の前の人物が、本当に世界が誇る最大の教育機関「世界学校」を設立した偉人なのかと、夏原の目が剥くほど奇天烈な格好をしていたからだ。
「世界学校」の設立者であり、理事長兼会長であり、内羽氏を含めて四人いる校長の中で、特に変わり者として有名な内羽鉱太郎氏だ。
柔らかな雰囲気を醸し出す麦わら帽子に、真っ赤なネクタイ、ダークグリーンのスーツを、すっきりと着こなしている。口元には白が混じったヒゲを蓄えている。ダンディズムが漂う素敵な紳士と、女性から褒められるだろう容姿をしているだろうが、個性過ぎるそのファッションに唖然としてしまう。このファッションセンスが変わり者と言われる所以なのだろう、と夏原は内羽氏を分析した。いわゆる、現実逃避だ。
「あなたが、内羽鉱太郎氏ですね?」
だがしかし。と理性でもって現実逃避をする自分を引き戻した。
自分の仕事を遂行し、迅速に終わらせて、我が家に帰ろう。覚悟を決めた夏原は、内羽氏に尋ねると、屈託の無い笑みを浮かべられた。その笑顔には裏なんてないのだろうと思うほど、綺麗なものだった。
夏原は、自分の中にあった内羽氏の人物像を改めた。
「君が、斎藤大将の言っていた夏原中佐、だね?」
「ええ、そうです」
確認としてくる内羽氏に、夏原は淡々と頷いた。
「彼とは、先輩後輩の仲だったんだ。高校、ガラヴァスディの八年間を一緒に過ごしたんだ。そのよしみで、連絡を今でもしているんだ」
人好きのする笑みを浮かべて、血色の良い顔をもっと赤らめて、内羽氏は言った。内羽氏は申し訳なさそうに微笑んだ。汗っかきを気にしているのだ。
「先輩後輩……ですか」
夏原は何と言えばいいのかわからなかった。
「……斎藤大将は、どういう後輩でしたか?」
「いや、僕が後輩なんだ」
内羽氏は右手を横に振った。情けなく、ふにゃり、と力のない笑みを浮かべ、夏原の言葉を否定した。
内羽氏は話を進めた。夏原は、ただ微かに目を見開いて、内羽氏を見つめ返した。
「僕は中学を卒業してから、お金がぜんぜん足りなくて入れなかったんだ。仕方ないから、飲食店に就職して、それから点々と仕事を変えて、金を溜めたの。だからね、二十か二十一で、やっと高校に入れた。そういうこともあって、彼とは四つか五つくらい、差が開いている」
内羽氏は嫌な顔せずに、明るい穏やかな声で説明した。夏原は、信じられなかった。彼は、芒星国の出だ。ガラヴァスディ合衆国とは違って、治安はそこまで悪くなく、銃刀法はしっかりと整備されてある。余程のことがなければ、安定した人生を送れると、夏原は芒星国で生活するようになってから、ずっとそう思っていた。
しかし、内羽氏は違っていた。
「どうして……」
思わず、無防備な呟きが、唇から零れた。
「うちの父親がね、賤民の出なんだ。まあ、うちの母親もそうなんだけど。今から、解放運動が五、六十年前ごろにあってね。やっと僕みたいに親が賤民の出でも、学校行けたり、選挙権を持てるようになってきたんだ。と、言っても最近のことだから、世間からの目は、まだまだ冷たいし、偏見があるけど」
内羽氏は軽いことのように淡々と言う。
ちゃんとそこに悲しみはあるが、「昨日親に怒られた」と友達相手に、軽く笑いのネタとして話す程度の過去となっている。目の前にいる老年は、強い心を持っている。
内羽氏の過去話を、聞いた夏原は肝が冷える心地がした。――人には、立ち入ってはならない境界線というものがある。その境界線の内側は、その人にとって、非常にナイーブで、慎重に接しなければいけないほどの聖域だ。
その聖域は、ずかずかと無遠慮に入ってしまうと、必ず傷が付いてしまう。ガラスのように脆く、絹糸のように柔らかい。
「申し訳ありません。不躾でした」
軽く頭を下げて、夏原は己の非を詫びた。しかし、
「なんのことかな?」
内羽氏はウィンクした。今の夏原の無礼を水に流すということを暗に指している。
心が広い人だ。夏原は、苦笑し、そして感心した。
こういう、人が良い内羽氏だからこそ、人の愚かさも、素晴らしさも知っているからこそ、「世界学校」という奇跡のような、世界にひとつしかない国際連合直属の教育機関を設立できたのだろう。しかし、その「世界学校」を設立した場所が気に食わない。夏原は、嫌悪感を呑み込み、背を正した。
「自分は芒星国陸軍中央司令本部第二五隊隊長斉藤征一郎大将付き副官夏原篤中佐であります。今回の芒星国立レンゼル学園の視察に際しての護衛を勤めさせていただきます」
敬意を表して、夏原は最敬礼した。「感激だなー。こういうの間近で見たかったんだ」と子どものような煌きをたたえた瞳で、内羽氏は感激した。
ファッションセンスだけでなく、彼は、その思考回路が独特であるため、変わり者と言われているのかもしれない。
「それじゃあ、ホテルに行こうか?」
内羽氏は夏原をエスコートするように手を差し出した。夏原は苦笑を浮かべ、頷いて、その差し出された手を恭しく取った。
二人は、空港にあるホテルへと向かった。
内羽氏と夏原は、宛がわれたホテルの部屋で、一息入れるところだった。
「ガラヴァスディ合衆国は、コーヒーが主流だと思っていましたが……」
自分の目の前にあるティーカップの中を覗き込んだ。それに、内羽は愉快そうに笑いかけた。
「うん、コーヒーは上流階級で主流なんだよ。僕たちみたいに庶民さんは、緑茶を好んでいるんだ。だから、芒星国産の茶葉は重宝しているんだ」
にこにこと子どものように自慢する内羽氏が、夏原には眩しかった。童心を忘れていない、しかもこれが地である内羽氏は、人が必ず持っている「裏」などないのではないかと思えた。心の奥で「そんなことはない」と否定した。
「ティーカップに緑茶はあまりマッチしませんけどね」
内羽氏のお願いにより、夏原は遠慮のない話し方をしている。と言っても、公の場ではしっかりと内羽氏を立てていることを条件にして、砕けた口調にしている。それでも、内羽氏はお気に召さないらしい。
謙虚な面では、夏原の上官である斎藤より上に行く。否、斉藤大将のあれは単に謙虚なだけではない。組織が苦手なのだ。それなら、なぜ軍人になったのかと問いただしたい。――人のことは言えないが。
「少し、聞いてもよろしいですか?」
「ん、なんだい?」
内羽氏は、クッキーやお茶を用意していた手を止めて、夏原の顔をまっすぐに見返した。
「なぜ、ガラヴァスディ合衆国で学校を創立したのですか?」
内羽氏のことを聞いてから、夏原の胸にずっとその疑問が存在しつづけていた。、ガラヴァスディ合衆国は、子どもたちのために国を動かすのではなく、国に利益をもたらす人のために動く国家だと思っていた。しかし、内羽氏はガラヴァスディ合衆国で子どもたちのために学校を創立した。
どうして、ガラヴァスディ合衆国で学校を創立できたのか。それがわからなかった。
「あなたは、半年前に、国際教育が主題の雑誌で「子どもたちのために、世界を知る、世界で活躍できる学校を作りたいという夢を持っていた」と言った。私はそれを読んで、ずっと疑問に思っていたのです。どうして、このガラヴァスディという国で、夢を達成できたのか。あなたに聞きたい」
じっと内羽氏を見返す。内羽氏は、静かな瞳で夏原を見返している。その瞳は、内羽氏の人柄を表しているかのように、優しく、暖かでありながら、どこか涼しげだった。眩しい瞳だと、夏原は胸にどろりとした感触を覚えた。
「別にこの世界を変えようとか、そういった正義感溢れる理由は特にないんだ。ただ、学校を作りたいと思った。子どものための学校を作りたかった。子どもが世界に夢を持てるような、そんな学校を作りたいと思ったんだよ。……恥ずかしいから、こういう夢のこととか、あまり人に言いたくないんだ」
恥ずかしそうに、頭を人差し指でぽりぽりと掻く。目はあちこちと動かして、体も忙しなく、そわそわと揺すっている。
「で、えーと、ガラヴァスディ合衆国で、僕の夢が達成できたのは何故か……という質問だったね。単純明快だ。僕には、同士がいたんだ。ガラヴァスディの大学で知り合った友人と協力してね」
皺が出来た初老の渇いた手は、それでも張りが残っている。自分の手で苦労し、自分の手で名誉を掴んだ者の手だ。
「つまり、あなた自身の力というよりも、他者からの協力によって学校が作れたと?」
「そういうことだね」
内羽氏は、鷹揚に頷いた。その仕草は、孫を相手に話している祖父のように見えた。
「でも、どうしてこんな事を聞くのかな?」
ゆったりとした口調で夏原に尋ねた。
夏原は、しばらく黙り込んだ。ガラヴァスディ合衆国で夢を追える訳がないと、決め付けていた。夏原の中にあるガラヴァスディ合衆国は、弱者からすべてを搾り取り、用を終えたら即座に切り捨てる。その後、弱者がどうなったとしても関知しない。それが、ガラヴァスディ合衆国のやり方だった。現に、夏原は過去でガラヴァスディ合衆国から、そのやり方で、家族を奪われ、住む場所を奪われていた。
「私は、ガラヴァスディ合衆国の出身です」
「あれ、斎藤君からは芒星国出身って……」
困惑した内羽氏の双眸を見た。
「芒星国に帰化したんです。というより、私の母は、元々芒星国の出らしいんですが……詳しいことは何も聞いていません」
緑茶を喉に流し込む。涼やかな渋みが喉の奥に広がった。美味しいと素直に感じられた。これが、生きるということだ。
ティーカップの中で揺れる緑茶を眺めた。夏原は続ける。
「私が十になるまで、ガラヴァスディのスラム街で弟と一緒に暮らしていました。初めのうちはまだ良かった。母は健在でしたし、食べるところも、住むところも心配しないで良かった」
緑茶の表面に写る自分の顔が歪んだ。
憎悪と、嫌悪と、屈辱と、憤りが、混ぜこぜになった表情。この世で最も、一番醜く、一番哀れな顔。
「しかし、ガラヴァスディ合衆国は極度な潔癖症だった。膿を一掃しようと、ある法案を可決させ、施行した」
顔を上げて、内羽氏を見つめる。内羽氏は目を見開いた。
「性を商品とするあらゆる商業は一切禁止となりました。いわゆる禁春法と言われる法律です。これと同時に禁酒法も施行されましたが……。私の母は娼婦でした。そして、私は娼館で生活していた。この禁春法によって、母は職を失い、国に保護という名目で施設に送られました。そのあと、母がどうなったかは知りません。……私は、家も母も失った」
内羽氏の顔の向こうに、母を連れ去った顔が浮かんだ。母の顔はもう思い出せない。ただ、笑顔と疲れきった顔だけがぼんやりと浮かぶのだ。夏原は、血が出るほど唇を噛み締めた。膝に置いた手を力一杯、握り締めた。
「……あの国で夢を追えるはずがない。あそこは、人の希望を奪いつくされる。心の豊かさなどあっても無用になる。そう思っていました」
話し終えると、内羽氏の顔から、ティーカップの中に視線を移した。ゆらゆらと、鮮やかで渋みのある緑茶が波立つ。
カップを掴む手の平に、じっとりと汗が滲む。別に空調は適度な温度を保っている。
「私たちは、あの国にとって弱者であり、排除すべき膿だった。あの国が欲しいのは、力がある強者、そして心身、地位、家柄に穢れがない選ばれた者だけ。
だから、あなたは世間一般では弱者として見られる。しかも、あなたは穢れがあった。あなたは賤民だった。ガラヴァスディから見れば、あなたは選ばれざる者だった……なのに、あなたは夢を完遂させることが出来た。……なぜですか?」
波紋を描いて踊る緑茶を見つめたまま、独り言のように呟く。同時に、頭の隅で自分自身を罵倒していた。
なぜ自分自身を他人に曝け出しているのか。他人は敵だ。信用するな。弱音を吐くな。信じれば裏切られるぞ。その口を閉ざせ。その心を閉ざせ。お喋りを終わらせろ。
黙れ。
黙れ。
黙れ。
黙れ。
黙れ。
黙れ。
黙れ。
――黙れ!
何度も、何度も、もう一人の自分が、言葉を遮ろうとする。だが、夏原は話し続けた。内羽氏にだけは、自分のことを話さなくてはならない。そんな使命感にも似た衝動によって、夏原は突き動かされていた。
「羨ましいと、思った」
「羨ましい?」
「……はい。私は、ガラヴァスディから逃げた。なぜなら、私は弱かったから。ガラヴァスディで夢を追えるわけがないと決め付けて、ガラヴァスディから逃げて、芒星国で軍人となった。……夢を持ったことなど、初めからなかったのに」
最後に、夏原は自嘲した。
内羽氏は悲痛な瞳で、夏原を見つめる。目の前に座る青年は、困難な人生を過ごしてきた。夢を持つこともなく、夢を追うこともなく、立ち向かうこともなく、ただ強者から追われ、選択肢も潰された。青年は、自分と同じ国家による一方通行の方針によって出てきた被害者だ。内羽氏は眉間にしわを寄せた。唇を噛み締めて、俯く夏原の肩に優しく手を置いた。
夏原は肩に温もりを感じて、頭を上げた。目の前に、まっすぐ自分を見返してくる内羽氏の微笑があった。
「君には、まだ可能性がある。僕の半分も、まだ君は生きていない。巻き返しはできる。人生っていうのは長いからね。だから、僕と一緒に夢を見ないか?」
ゆっくりと、迷子に言い聞かせるかのような話し方だった。まるで子守唄だと、夏原は思った。
内羽氏の黒目に、電気の光が当たって、キラキラと夜空に煌く星のように見えた。
「君にはまだ未来がある。その未来でなら、なんにだってなれる。諦めるのは早いよ、夏原君。人っていうのは、夢に向かっているときに物凄いエネルギーを出す。それは、人が自ら持っているエネルギーなんだ」
夏原の肩に置いている内羽氏の手に力がこもった。熱くて、力強い手だった。内羽氏が言う夢に向かっているエネルギーそのものだと思った。
この前向きな姿勢が、夏原にとって眩しく見える。
「未来なら、とっくのとうに捨てました」
だから、いらない。必要ないのだ、孤独であることを義務づけた夏原にとって、夢も、未来も必要ないのだ。いいや、夢を見ることも、未来に向かうことも、なにもない夏原には、必要ない。
眩しく見えるその星の煌きは、孤独な心には届かない。
夏原は、冷たく内羽氏の説得を切り捨てた。
彼は、夢を見られない。
彼に、星の光は届かない。
内羽氏は、力なく微笑んだ。
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