追跡

第三節 「ガラス越しの別離」



届かない心が、これほど痛いとは思わなかったよ。










 雨、雨、雨。
 ぽつん、ぽつん、ぽつん。
 窓を冷たく叩く雨音。
 
 ガラヴァスディ合衆国北部と芒星国全土を覆う低気圧は、雨を降らせる雲となっていた。ガラヴァスディ合衆国と芒星国は、それほど離れていない。時差もない。飛行機で片道三時間といった距離にある。隣国というよりも、隣県と言ったほうがいいかもしれない。
 沈黙のティータイムが終わったあと、内羽氏は仕事の打ち合わせで、遅れて来た世界学校の校長三名と内羽氏は部屋に篭っている。
 夏原は、自分以外にも景吾がついているということで、暇を内羽氏から貰った。
 芒星国からは夏原。世界学校からは、内羽氏以外の校長三名、付き添い三名の六名、ガラヴァスディ合衆国からは二名が派遣されている。
 内羽氏と校長三名が話し合っているミーティングルームの中で、彼らを警護しているのは、ガラヴァスディ合衆国から派遣されている二名と、世界学校からの付き添い三名。
 世界学校の校長――内羽氏以外は、二十代後半から三十代前半の男女だった。
 いやに若すぎるな。夏原はそう思った。
 あんなに若すぎれば、ひんしゅくや反感を貰うことだろう。自分には関係ないけれど。
 ぽりぽりと頬を掻いて、全員の後ろにある窓の方に視線を動かした。
 内羽氏を含めた四名は百鬼財閥や李財閥に並ぶ大企業の社長や会長の地位を持つ大物だ。
 教育は人格を形成し、思考を養い、将来の進路を定めることに、多大な影響を与える。政府が教育を道具に使うほど、教育というものは絶大な威力を発揮する。
 求めている人材が育成されるのが、教育の場なのだとしたら、教育に手を出す企業にしてみれば、利益もついてくる。
 ただし、教育は諸刃の剣だ。使い方を間違えれば、怪物が生まれ場合もある。
 教育とはその国の方針や、文化などの背景が直接表面化するもの。だからこそ、国それぞれで教育制度や教育への考え方が違う。そこが興味深いと思うところである。

 ただ、愚かな人間も、賢い人間も、教育によって生み出されるもの。
 数刻前の内羽氏の力ない微笑みが、夏原の脳裏に浮かび上がった。
 あの笑みは、どこかで見たことがある。
 はて、どこだったかと夏原は思案を巡らせてみた。つい最近にあの笑みを見た記憶が、確かにあるのだ。ぐるぐると思考を回す。思考を回すその一瞬一瞬に、雨音が滑り込んでくる。
 その音を鬱陶しいと思っても、カーテンを閉める気が起きなかった。
 ああ、そうだ。夏原は、目蓋を下ろした。
 真っ黒になった視界に、在りし日の母――晴絵と今の養母である静絵が重なって蘇る。
 目蓋を上げて、ベッドに横たわる。柔らかで適度な弾力が背中を受け止めた。
 力のない笑み。全てを赦してしまう笑み。それは、いつも晴絵が夏原に向かってよくしていた微笑みだった。義母の静絵も、同じような微笑を浮かべる。
 何の罰だと、思わず問い詰めたくなる。
「俺は、傷つけることしかできないわけだ」
 自分を嘲笑う。
 優しく抱き締めることも、微笑むことも出来ない。ただ、冷たくするしか知らない。生んで育ててくれた人の温もりは、とうの昔に捨てている。
 十年前は、殺し屋だった。
 拾われてから、静絵に温もりを貰おうと思いもしなかった。
 ただ、弟の忠には悪いことをした。温もりをやれなかった。いつも、目が合えば、手を必死に差し出していたのに、俺はその手を掴まなかった。我知らず、傷つけてきた。
 後悔してきた。後悔するのが遅すぎた。忠が、悲惨な結果になるまで放っておいたのだ。
 だから、消えた。
 だから、拒絶された。
 夏原は、己の無力ぶりを嘆いた。否、これでいいのかもしれないと、思い始めてもいる。傷つけるばかりしかできないから。今さっきも。夏原は、喉の奥で呟いた。
 脳裏には、内羽氏の慈愛の微笑みが浮かぶ。内羽氏の顔と静絵の顔が重なった。浮かんだ顔に、忠の無表情が重なる。
 ドキリ、と心臓が一際強く鳴った。口元に手を当てる。額から、じわりと嫌な汗が滲み出てくる。心地悪い感覚が夏原の身体を包んだ。黒い靄が、見えるかもしれない。そんな馬鹿なことを考えた。そうでもしなければ、窓から飛び降りてしまいそうだった。
「らしくない」
 ぽつりと呟いてみる。
 本当に、自分らしくない。
「この国のせいだ」
 情緒不安定で、昔のことばかり考えてしまうのを、理想郷だといわれるこの国のせいにする。愚かな己が、殺したいほど憎らしかった。
 弱弱しい己が、惨めで惨め過ぎて腹が立つ。
「彼のせいだ」
 自己弁護ばかりして、冷静さを失くして、衝動を息づかせる自分を、内羽氏のせいにした。そうするしかなかった。
夏原は、盛大な舌打ちをした。ベッドから起き上がって、目の前に設置されてある鏡台を見つめる。鏡の中には仏頂面の長身の男。蘇芳色の髪に、忠に似ても似つかない青い瞳。赤が良かった。赤なら、この色のせいにして全てから逃げ出せるのだ。
愚か者は、俺だ。
「……らしくない」
 逃げようとして、逃げる勇気を持っていない。斉藤の優しさを、自分に縛り付けて、それさえも斉藤のせいにして、すべてから逃げようとする。本当に、似たもの兄弟だ。忠も、朔野を縛り付けているのだろう。自分たちは、誰かに依存しなければ生きていけない。
 斎藤に、忠に……否、俺の場合、忠しかいらないのだ。
鏡に映る自分に向かって、冷笑した。しかし、ちっとも気は済まなかった。
苛立ちが助長するだけ。気分転換は上手くいかない。もう一度舌打ちをして、鏡から視線を逸らした。
 その時、コンコンと、ドアをノックする音が聞こえた。
 気配を探る。一人。それも、自分より背が低い。胸あたりの高さだと、夏原は推測した。
「誰だ?」
 誰何すると、意外な声が聞こえた。
「僕です。李壮成です」
 予想以上に早かった。李家の情報ネットワークを些か舐めていたかもしれない。
「……入っていい。鍵なら開いている」
 夏原が言い終わるのと同時に、ドアが微かに軋む音をたてて開いた。
「無用心ですね」
 瞳を細めて笑う色白の少年が立っていた。
「そうでもない」
 夏原はそう言うのと同時に、どこからか電子音が聞こえた。すると、ドアが閉まりガチャリと鍵がかかる音がした。
「すごい!」
壮成は感嘆の声を上げた。
「ホテル側に無理を言って仕掛けさせてもらった」
「……へー」
 今度は呆れの視線を投げつけてくる。
キレイな子どもだ。夏原は、口元に苦味を乗せる。
「宿題は出来たのか」
 鏡に背を向けて、壮成に尋ねる。
「まあ、そんなところです」
 屈託なく笑った。だが、どこが歪んでいるようにも見えた。
手を伸ばして、壮成の柔らかな栗色の髪を撫ぜる。
「なんですか?」
「なんとなく」
 眉をひそめる壮成に、夏原は笑った。
 その笑顔に、どこか「ざわり」とするものを覚えた。壮成は、ますます眉をひそめる。
 壮成の声は、安らぎを運んでくるかのように、涼やかで暖かい。聞き心地もいい。あれほど揺れ動いていた心が、今は静かに平静を保っていた。
 癒し、か。夏原は、満更でもないこの感情を受けとめていた。壮成は夏原の横顔を見つめながら、手持ち無沙汰に佇んでいた。そんな壮成に気づいた夏原は薄く微笑んだ。
「座ろう」
 壮成の肩に手を置いて、ベッドに腰掛けることを促す。
 先に夏原が座り、それを見届けた壮成も座った。
 忠は、人になりたかったと答えた。
 静絵は、魔物だからと答えた。
 斉藤は、人を神の代わりに惑わし、殺したと答えた。
 ハヤテは、本能だと答えた。
 ――さあ、この少年は何と答える? 心臓が高鳴る。まるで、何かに恋をしているように。否、そこまで殊勝な奴ではないな、俺は。心の内で泥を吐いた。
 銀を生まれ持った哀れな愚かしいバルタザールの罪を、何と答えるか。夏原は頭を切り替えて、前を見据え、あちこちと視線を動かす壮成に問いかけた。
「それでは、李壮成。宿題の答えを聞かせてくれ。どうして、バルタザールは人を惑わした? どうして人を殺した?」
「……バルタザールは、肯定してほしかったんです」
 感嘆した。ほぉ、と無意識に声が出た。壮成が出したその答えは、今まで聞いたことがない答えだった。心が浮かれる。本当に、壮成は面白い。
「本能ではなく?」
 膝に頬杖をついて、声を抑えて、問いかけた。
壮成が夏原を見上げた。綺麗な瞳をしていると、壮成の目を見て思った。
「そうかもしれません。でも、本能ならば、ガステラル王を助けなかったでしょう?」
 壮成は、話を続ける。感情的に反論するというより、理論的に自分の意見を主張している。芯の持った子どもだと思った。
 ――ガステラル王とは人間族の王であり、ヴァジニヤ教の古代神話(ヴァマラニ神話)では三賢君の一人として有名だ。
 興味深い思考回路だ。夏原は、楽しくなってきた。目を眇めて、猫のようにのどを鳴らした。
 壮成は、淡々と話し続ける。
「人を惑わしたというよりも、自己肯定をして欲しかったんじゃないかと思います。自分の子どもに。いや、子どもっていうか兄弟っていったほうが正しいかもしれませんけど……」
 夏原は黙ったまま、壮成の顔を見つめる。壮成は、何も言わない夏原を見つめ返し、口を開いた。
「自己肯定をしてほしくて、禁忌とされたことをしたのだと思います。盗みも、浮気も、知識を授けることも」
「愚かしい部分、賢い部分、全てを人に見せたと?」
 真摯な顔で、壮成に尋ねる。心の内は、笑い出したいほど歓喜していた。
 壮成は、にやりと笑った。
「寂しかったのでしょう。全てを認め欲しかったのだと思います。子どもが親の気をひきつけるように」
「では、なぜ殺した? 君の言葉を借りれば、親、兄弟である人間を」
 責めるように畳み掛ける。壮成は黙った。唇を舐め、夏原を上目遣いで見る。胸中を見透かされているかのような、そんな目つきだった。
「確か……創造主から、バルタザールは全てを奪われたと記されていた。ガステラル王も、気に入りの塔も、自分の森も、ありとあらゆる全てのものを奪われた。だから、バルタザールは創造主の愛すべき子どもたち、そして自分の兄弟とも、親ともいえる人間を殺した。でも、自分を認めてくれる、肯定してくれる存在がなくなってしまった。だから、その屍から魔物を作り出した。ガステラル王や、見てきた人々の姿に似せて」
 嫣然と微笑む華奢な少年が、人を陥れる魔物のように見えてきた。どこまで夏原自身のことを掴んできたのか。冷や汗と共に、暗い情動が背中を駆け抜ける。ゾクリとした。その感覚に心が震えた。
「だから、殺し屋になったのでしょう? 夏原中佐」
 上目遣いのまま、夏原に近寄る。その眼差しは、獲物を前にした肉食動物のそれだった。
 唇を舐める。舌なめずりに見えた。否、実際そうなのかもしれない。この子どもに食われるのかもしれない。それも、一興だ。夏原は、恍惚とした笑みを唇に浮かべて、壮成を見つめた。
「俺が殺し屋になったのは復讐のためじゃない。周りが敵だらけだったからだ。俺は肯定してくれる存在など、俺一人だけで十分だ」
 目の前に佇み、見上げてくる壮成の顎を掴み上げ、視線を重ね合わせる。まっすぐで綺麗なセピア色の瞳は潤むことなく、きつく見上げてくる。屈服させるのだとした、こういう瞳を持つ人間だ。意地悪く、夏原は嗤った。
「知っているか? バルタザールが全ての宗教や神話で邪神扱いされている理由を」
「……いいえ」
 今度は、壮成が魔物に魅入られたかのように、夏原の瞳を凝視した。どちらもが相手を飲み込める気迫を持っていた。
 舞台役者のように、夏原は朗々とした響きでささやく。
「バルタザールは、異形だからだ。ありとあらゆる種類の獣を融合して造られた魔の獣であり、賢者でもある。そして、女でもないのに、子どもを身篭ることができる」
 だから、邪神とされる。そう締めくくった夏原は、捩れきった笑みを浮かべる。空っぽの笑みだった。壮成も、笑い返した。心の内は、不気味なほど静かな恐怖が滲んでいた。必死にそれを隠した。
「人は、未知なるものには、手厳しいですから」
「全くもって同感だ」
 壮成の顎から手を外し、がらりと雰囲気を変えて、不適な笑みを浮かべた。いつもの夏原が浮かべる人をくったような微笑みだ。
「だから、銀の瞳や、髪を持つものは異端視される」
「だから、あなたはバルタザールに惹かれている」
 夏原と壮成の言葉が重なった。それと同時に、二人は噴出した。
「なぜ、そう思う?」
 ニヤリと笑って壮成に訊ねる。本当に楽しそうな笑みだ。
「最も人らしいから」
 壮成の答えに夏原は首を傾げた。
「どちらかと言えば、俺は人ではないと言われるが」
肩を竦めた。夏原は懐からカードのようなものを取り出し、壮成に渡す。
「これは?」
 そのカードは名刺だった。夏原の名前と肩書きに、電話番号と芒星国の中央司令部の住所が記されていた。
「裏」
 夏原の一言で、壮成はそのカードの裏を見てみる。そこには、携帯電話の番号が手書きで記されていた。
「やるよ」
「有り難く頂戴します」
 にこりと、壮成は強かに笑った。
「父君によろしく」
 夏原は壮成の肩を軽く叩いて、部屋から出た。時間になったからだ。


 壮成を部屋に残し、内羽氏らが篭っている部屋のドアの前に立つ。左手首につけている腕時計で、時間を確認した。
 コンコンと、軽くドアをノックする。
 ガチャリと鍵の開ける音が聞こえたと思うと、ドアが開いた。
「入って」
 内羽氏が直々に出迎えてくれた。その内羽氏の後ろから慌てた声が聞こえる。
 苦労するな。他人事のように、夏原は溜め息を零した。
「どうかした?」
「いいえ」
 内羽氏から一歩離れて、怪訝な顔から視線を外す。内羽氏の後ろにいるのは、世界学校の校長であり理事である三人の男。そして部屋の壁に直立不動している二人の男は、ガラヴァスディ合衆国軍から派遣された軍人。
そのひとり一人の顔を見比べて思ったことは、どれも入ってきた夏原自身を警戒しているようだ。芒星国から派遣された軍人は、反ガラヴァスディだということが調査済みなのだろう。その視線を、心の中だけで嘲笑った。それが視線に込められたのか、部屋の中の雰囲気が一段と重くなった。
「えーと、さっきは紹介できなかったからしておくね。右から、クレセントの社長のヒューバート・アンデルセン。ラルカンシエルの副社長のガブリエル・レオン。『ガブリエル財団』の設立者でもあるんだよ。そして、最後に、彼がエスパーダの社長のフランシス・オルブライト。あそこに立っているのが、護衛してくれるガラヴァスディ合衆国国防省に所属しているジェーン・ガーネットとネーヴェル・ハドソン」
 重い雰囲気を払拭するように、内羽氏は大きな声を出して、順々に紹介をしていく。
 夏原は、ひとり一人の顔の特徴、印象を、緻密にインプットしていく。
 その夏原の観察していくロボットのような視線に出くわすと、人は嫌な顔をする。しかし、目の前にいる人間たちも、夏原を観察している。
 それに、夏原はニヤリと瞳だけで笑った。
 意外に有能な人材がガラヴァスディ合衆国にいたということに純粋に驚きもしたが、その反面、夏原自身の価値観が、内羽氏や今目の前にいる人間たちによって揺るがされている事実を無茶苦茶にしてしまいたい凶悪な衝動が、沸き起こっていた。
 その凶悪な衝動が歪んだ笑みとして、表に浮かんでいた。夏原はそれを承知で、感情を制御することを放棄していた。
「芒星濃く中央司令本部斉藤陸軍大佐の副官を勤めている夏原であります」
 目の前の人間たちを前にして、敬礼する。
ガラヴァスディ合衆国の軍人は敬礼を返したが、他の人間は目礼も何もせず、ただ夏原に警戒の眼差しを注いでいた。
「内羽会長。出発の時間が近づいているので仕度を始めてください」
「ああ、わかった。ご苦労様」
 労いの言葉を微笑みで返し、夏原はその部屋を退出した。壮成がいるだろう自分の部屋へと足を動かした。

 夏原が部屋を退出し足音が聞こえなくなるまで、室内は重い沈黙が立ち込めていた。内羽氏は、窓を開けて空気の入れ替えをしようかと本気で考えるほどだった。
 他の人間たちが夏原を警戒するのは、彼が反ガラヴァスディだけというわけではない。彼が芒星人でありながら、青い瞳を持つことに、反感を抱いているのだ。
 青い瞳は、ガラヴァスディ合衆国の国民にとって、特別な意味がある。ガラヴァスディ合衆国を建国した初代大統領の「ニコラス・キング・フレッカー」が青い瞳を持っているからだ。しかし、現代のガラヴァスディ人は、瞳の色は栗色、琥珀色が主流で、涼やかな青色の瞳は、ルーキュアル人の特徴であった。
 ――余談だが、「ニコラス・キング・ボーモント」は、もともとはルーキュアル人だという説と、ガラヴァスディ人という説が、歴史学の研究者の間で議論の嵐を巻き起こしている。依然、彼の人種がどちらなのかは謎のままである。
「内羽会長。本当に、彼を?」
 内羽氏の正気を疑うような目で、三人の校長のうち一人の若い男――フランシスは長身のため内羽氏を見下ろしながら、少し腰を低くして尋ねた。
「うーん、口説いたんだけど断られちゃった」
 あっさりとした口調で話す。
「あんたが、口説くとは……そこまでされる魅力が、わてには解らしまへん」
 そんな空元気な内羽氏に口を開いたのは、仏頂面がチャームポイントのガブリエル・レオンだった。琥珀の瞳を眇めて、夏原が出て行った扉を睨む。ガブリエルは、ガラヴァスディ西部に位置する村の出身だ。そのためか、言葉には未だに訛りがひどく残っている。
 標準語には決して直さないと言って意固地になっている、とは中学からの悪友であり現在クレセントの社長でもあるヒューバートの弁であった。
 そのとき、ドアのそばで待機していた一人が、少し俯けていた頭を上げ、ドアのほうを見つめた。隣に立っていたもう一人は、内羽氏を見つめる。
 内羽氏はその視線を受けて、微笑んだ。
「うーん、まあねー。でもねえ、落ちるのは時間の問題かなーって思うんだけど……どうなのだろうねえ、壮成くん?」
 ドアから入ってきた少年に、内羽氏は笑顔で声をかけた。
「僕から見た様子では、手強い相手じゃないですか?」
 内羽氏同様の食えない笑みを口元に浮かべて、内羽氏に向かって喰えないことを言う少年は、ベッドに腰掛けた。フランシスは、ドアのそばで待機している軍人の二人がライフルを構えず、淡々とした様子でいることに、肩を竦めた。
「それにしても、夏原くんは置いてけぼり?」
「ちゃんと書き置きを残しておきましたから。ご心配なく」
 ぼすん、と音をたてて、ベッドに寝転がった。年相応の壮成に、内羽氏は、くすくすと笑った。
「寝てないのかい?」
「家出してきましたから」
 あっさりと言い放つその内容に、内羽氏と少年以外は瞠目した。
「父君は驚くだろうねえ」
 内羽氏の様子はそれほど驚いてない。壮成は、そんな内羽氏の態度に慣れているのか、淡々と切り返す。
「驚くと思いますか。あの狐親父が?」
 少年は舌打ちと共に、父親の悪態を吐き出した。
「あくまでも、君の父親だろうに」
「あの男は、あくまでも「李財閥のトップ」です。僕のことを、息子だとは思ったことはないでしょうね」
 内羽氏が苦笑気味に、ベッドに横たわる壮成を見下ろして呟いた。横たわっている壮成は、内羽氏を見上げる。
「誰よりも李家至上主義者の男が、大勢いる子どもの中の一人を気にかけるとは思えませんよ」
 内羽氏を見つめたまま吐き捨てた壮成は、唇を窄めてうつ伏せになった。内羽氏は、ベッドに腰掛け、壮成の柔らかな栗色の髪を梳く。
「それでも、君はあの中で生き抜こうと決めたんだろう?」
 幼子を諭す父親のように、内羽氏は穏やかな声音で壮成に話しかけた。壮成は、膝にある掛け布団を引き上げて包まった。
「……どうやら、君には休息が必要のようだ。夏原くんに何か言われたのかな」
「いいえ。ただ、僕とあの人は似ているのだと思っただけです。……あの人は、」
 壮成はなにか言いかけて、口を噤んだ。頭は、掛け布団の中で、壮成の表情は分からなかった。
「どうした?」
「いいえ……なんでもありません」
 壮成は掛け布団から頭を出して、言い直した。壮成の目玉は、きょろきょろと落ち着きがない動きをしている。
「疲れた、だけですから。少し寝かせてください」
「分かった。出るときに起こそう」
 内羽氏は穏やかに頷いて、壮成から離れた。
 壮成は布団の中で、唇を噛み締めた。密閉している中だからか、息苦しさもあったが、それ以外に夏原への恐怖があった。
 夏原の部屋から出た時にはそれほど恐怖がなかった。なのに、今は感覚が麻痺しているようだった。それが、内羽氏の顔を見たらどうだろう。冷や汗が出ている。室内の空調は効いていて暖かいのに、体は震えてばかりいる。
 夏原と会話をしていた時は、間違いなく壮成が優位に立っていた。しかし、それは間違いだったのかもしれない。夏原は、自分が思っている以上に危ない人間なのかもしれない。
 壮成は強く目蓋を閉じて、寒気が消えるのを待った。


 ガラヴァスディ合衆国から芒星国に到着し、そこから国立レンゼル学園からの送迎車に乗って、午後三時になっていた。
 夏原たちの目の前にそびえている西洋風のレンガ製の建築物は、まるで中世の城のように見えた。ただ、雨が視界を占領しているため、あまりよく見えない。
 夏原は、片手で傘を差しながら、車に凭れかかる。億劫そうに、その建築を見上げた。
 仰々しいにも程があるというのが、夏原の正直な感想だった。
 助手席を覗き込めば、ぐったりとしている壮成が見える。
「それでは、私はここでお待ちしていますので」
「……何を言ってるんだい、君は」
 敬礼した夏原に向かって、事も無げに内羽氏が言い放った。夏原は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「はい?」
 夏原は、思わず聞き返した。
「一緒に視察しよう、ね?」
「え、内羽会長……?」
 後ろで控えていたガブリエル氏も慌てて、内羽氏に声を掛ける。
「だってね、よく考えてみてよ。夏原君。君は芒星国を代表して僕を護衛しているんだよ? なのに、君はここで待っているって言うしー。そんなのだめだからね。一緒に行くよ!」
 強い調子で言うと、内羽氏は、夏原の腕を引いて、国立レンゼル学園の受付へと向かっていった。
「内羽会長! 壮成殿はどうするのですか!?」
「フランシスが見てくれるから。大丈夫、大丈夫」
 夏原は車の窓を指差して喚くが、内羽氏はどこ吹く風と言わんばかりのゴーイングマイウェイに、ずんずんと歩みを進めていく。
その後姿を見送る世界学校の校長たち―フランシス、ヒューバート、ガブリエルは同時に顔を見合わせて、ため息を零した。
 フランシスが苦笑して、言った。
「会長も仕方ない人だ」
「夏原には、苦労かけるな」
 ガブリエルはため息混じりに呟いた。
「では、二人とも会長のことを頼むよ」
 フランシスは、ヒューバートとガブリエルの肩を軽く叩いて、二人を送り出した。
二人の後姿を見送ったあと、車の運転席のドアを開け、中に入った。
「どうですか」
「……気持ち悪い」
「ウィンドウを開けて、空気の入れ替えをしますか」
 運転席にあるスイッチを操作して、助手席のウィンドウを開ける。心地良いそよ風が車内を満たしてゆく。
「ああー、生き返るー」
 壮成の年相応の幼い横顔を見つめたまま、フランシスは微笑んでいた。常日頃、ご老人の顔ばかり見ている。
世界学校の校長に就いているといっても、あまり子どもたちと関わりが少ない。だから、壮成と一緒にいると癒されるのだった。
「夕飯何が食べたいですか?」
「んー、考えとくよ」
 ほのぼのとした空気を、湿った風が外へ運んでいった。


 花城神楽は、国立レンゼル学園の玄関口に置かれている喫煙所でタバコを吹かしていた。
 国立レンゼル学園に世界学校の会長内羽鉱太郎が訪れる情報が耳に届き、取材をさせて貰おうとここに来た。
 その時、花城の目の前を内羽会長が通り過ぎた。いつもの付き人と、もう一人見知らぬ男を連れて。
 花城は黒目をキラリと煌かせて、内羽氏に呼びかけた。
「内羽会長ぉー!」
 野太い声で呼ばれた内羽氏はすぐに後ろを振り向いた。内羽氏は、自分を呼びかけた男の顔を見て、にこにこと満足そうだった笑顔を、もっと満開に咲く花のようにほころばせた。
「神楽君じゃないか!」
 夏原の腕をつかんでいた手を離して、花城の両手を勢いよく掴んで胸元に持ってきた。その勢いで花城はバランスを崩して倒れそうになった。
「うわっと!」
「おおっと、すまん、すまん」
 夏原は二人の滑稽な様子に、我関せずの姿勢で眺めていた夏原は小さく笑みを浮かべた。
「今日は、ぜひ内羽会長の話を聞かせてもらいたくてね。待ち伏せさせて貰っていたんですよ」
 神楽は口元のタバコを加えたまま、何故此処に居るのかの経緯を話した。
「そうか、そうか。それは嬉しいなあ。夏原君。彼は僕の知人で、フリージャーナリストの花城神楽君だ。神楽君。彼は夏原篤。芒星国中央陸軍司令本部の司令官である斉藤大将の副官を勤めているんだよ!」
 内羽氏は、自分の息子のように夏原の肩書きを自慢げに紹介した。
「ほー。若そうに見えるが、エリートだな」
「それだけしか出来ない無能なだけです」
 夏原は、無表情のまま呟いた。鋼のように冷たく、重い無表情だった。内羽氏は、その顔を見つめて微苦笑を浮かべた。
内羽氏の眼差しが暖かく穏やかなことに、花城は眉をひそませた。どうして彼がこんな顔をするんだ? 花城は、心の内で零した。
「無能じゃないよ。僕がこんなに口説いているのに」
「えっ、それホントですか!?」
 花城は大げさと言っていいほどの反応をする。
それまで静観していた、ヒューバートとガブリエルは顔を見合わせて苦笑した。
「口説くと言っても、会長の独り相撲ですが」
 ヒューバートが口を出した。内羽氏はひどいよ、と口を窄めて突っ込む。すみませんと、ヒューバートは平謝りをした。
こういう気安い仲が花城としては、とても眩しいものに見える。羨ましいのかもしれない。
「と、言われましても……私は斎藤大将に忠誠と服従を誓っているもので」
 そう言う夏原だったが、その目に毒のようなドロドロとした嫌なものが潜んでいる。それを、花城は見逃さなかった。どうやら、この軍人さんは一物も二物も腹に抱えているようだ。花城は、心の内で唇を舐めた。
 玄関を出ると丁度良く、車が停まっていた。
その時、ガチャリと車のドアが開いた。
出てきたのは、内羽氏から壮成を頼まれていたフランシスだった。
「もう、そろそろお戻りになられるかと思いまして。お迎えにあがりました、内羽会長」
「あー、待ちくたびれたー」
 助手席から出てきたのは壮成だった。
「それじゃあ、神楽君。僕はいち早く帰るけれど、君はどうする?」
「あ、お供していいっすか?」
「構わないよ」
 神楽の申し出に、内羽氏は人好きのする笑みで答えた。
「壮成殿はどうしますか?」
 フランシスが壮成に声をかけた。壮成は腕を組んで考える様子を見せる。うんうんと暫く唸っていた。
「あ。そうだそうだ。夏原さんの家に行ってもいいですか?」
 フランシスでも、内羽氏でもなく、夏原本人に尋ねた。
「え……狭い、けど?」
 夏原は突然のことで、素の言葉で答えてしまった。壮成はそんな口調にも構いもせず、笑顔になった。
「それでは、夏原さんの家に行きます」
「そうですか。お気をつけて」
 フランシスは、壮成に暖かな笑みを向けた。ヒューバートとガブリエルは、意外だと言わんばかりにフランシスの顔をじっと見つめた。そんな二人の視線に気にせず、内羽氏を社内へとエスコートし、いまだ見つめてくる二人に声をかけ、車に乗るように促した。
 花城も車に乗ったところを確認したフランシスは、夏原と壮成にお辞儀をしてから、自分も車へと乗った。
 内羽氏は助手席に座っていた。ウィンドウが下がっていき、助手席から顔を乗り出した。
「君は、夢を見ないと言ったが、君には夢が必要だ。僕は、あきらめない」
 真っ直ぐに夏原を見るその瞳に、火傷を負いそうなほどの熱を感じた。
それほど、内羽氏の瞳は情熱の輝きを湛えていた。
「それでは、また会う日まで」
 内羽氏の言葉には答えず、夏原は敬礼した。内羽氏は溜め息を零して、窓から顔を離した。ウィンドウが閉まっていく。その間、内羽氏と夏腹はお互いを見つめていた。
その視線は何も語らず、何も伝えなかった。
窓が完全に閉まると、見計らったように車が発進した。黙ったまま、夏原と壮成は車を見送る。



明後日。内羽氏が誘拐されたという報が、芒星国軍中央司令本部に届いた。


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