僕と「魔法使い」


 絵を描いているお隣さんは、みんなから「魔法使い」と呼ばれている。
 僕も、お隣のお姉さんは「魔法使い」と呼ぶ。なぜなら、色々なことを知っている。アップルパイを上手に焼く方法。卵を上手に焼いてひっくり返す方法。傷口から膿を出すのには雪ノ下がいいとか、打ち水をする時に気をつけること。とにかく、僕が知らないことをたくさん知っている。
 そんな「魔法使い」は僕より年上なのに、隣に並んで歩く妹と間違えられる。僕と「魔法使い」は顔が似ているわけでもない。「魔法使い」は、雪の結晶のような髪の色をしている。瞳の色は、桜色。白いけれどほんの少し赤みが入っていて、見つめているとドキドキしてきて、胸が苦しくなる。だから、僕は「魔法使い」の目を見ないようにして話す癖がついてしまった。
 「魔法使い」は、僕を赤ん坊のころから知っている。僕のおむつを変えたんだよ。僕に会うと、いつもその話を出してくる。恥ずかしいから止めて欲しいけれど、僕の小さい頃を話す「魔法使い」は、とても楽しそうに話すから、僕は文句ひとつ言えやしない。
 僕は、「魔法使い」が好きだ。胸が苦しくてドキドキするのも、真っ直ぐに瞳を見つめられないのも、そういうことなんだと思う。
 でも、僕は今の「魔法使い」との関係を気に入っている。
 「魔法使い」のアップルパイやジンジャークッキー、マカロンをおやつに、お絵かきの話、音楽の話、僕の知らない話をしてくれる時間は、学校での勉強よりもとても楽しい。だから、僕は「魔法使い」の友達のままでいたいんだ。
 「魔法使い」のおうちは三階建て。隣の僕のおうちは二階建て。「魔法使い」がお絵かきをする部屋は三階の東向き。僕の部屋は二階の西向き。窓を開けば、窓辺でキャンバスに向かっている「魔法使い」を見上げることが出来る。僕は学校からおうちに帰ってくると、チーターのように走って手を洗って自室に駆けこむのが習慣になった。僕の瞬発力はこうやって鍛えられている。秋にあるマラソン大会でアンカーを務めることになったのは、日頃の鍛錬の賜物かも。僕のおうちは二階建てで、縦に大きくはないけれど、横に大きい。だからいくらでも走り回れる。中庭も広いから、僕と友達は追いかけっこをして遊んでも、誰も怒らない。
 でも、最近は自室に引きこもることが多い。だって、僕の部屋の窓からは、真剣な顔でキャンバスに向かって絵を描く「魔法使い」を見ることが出来るから。
 今日もピューマのように駆け抜けて、二階の僕の部屋にゴールを決めた。ベッドに鞄を放り投げて、そぉっと窓を開けた。
 「魔法使い」の窓は開いていて、清潔な白いレースのカーテンが風に揺られている。その中から「魔法使い」が見えた。けれど、今日は違った。
「おつかれさま。少年」
 にこりと微笑む「魔法使い」は綺麗だった。ドキン。胸が苦しい。
「きょ、今日は、絵を描かないの?」
「昨日、描き終わった。今日は、お休み」
「そ、そうなんだ」
 少し残念だった。それでも、こうやって言葉を交わすことも、僕にとっては嬉しい。胸の中にある飴玉が溶けて行くような心地がした。
「あ、あの」
「ん?」
 銀色の髪が、橙の夕日に照らされて、宝石のようだった。
「そっち行ってもいい?」
「いいよ。おいで」
「な、なにか持っていく?」
 何かしたかった。「魔法使い」に喜んで欲しい。必要とされたい。
「……モデルになってくれる?」
「モデル?」
「そう」
「わ、わかった」  慌てて頷いて僕は身を翻す。部屋のドアを開けた瞬間、爪先が突っかかって、激しい音を立てて転んでしまった。
 恥ずかしい。顔が熱い。情けない。視界が少しぼやけた。おそるおそる振り返れば、「魔法使い」は肩を震わせて笑っていた。笑われた。恥ずかしい。情けないところを見られた。恥ずかしい。
「わ、笑わないでよ」
「ごめん」
「い、いいよ。……待っててね」
「うん。待ってる」
 頬杖をついて、ミステリアスな微笑みを浮かべる「魔法使い」に、僕の心臓が早くなった。今度は転ばないようにゆっくりと立ち上がって、歩き出す。
 僕の頭の中では、さっきの「魔法使い」の微笑みが離れない。僕の胸の中にある飴玉が、ころころと音を立てている。ほんの少し「魔法使い」の頬が赤かったのは、夕日のせいだろうか。熱っぽかった。もしかしたら、風邪でも引いているのだろうか。
 僕は不安になって、居間の戸棚から救急箱を取って玄関へ走りだした。
 隣の「魔法使い」の家。インターフォンを鳴らす。インターフォンを押す指が、震えていた。
 神様。僕は嘘をつきました。友達のままでいいなんて、やっぱり思えない。
 僕は「魔法使い」が好きです。

 しばらくして、玄関のドアが開いた。
「少し遅かったね」
 じっと、僕は「魔法使い」の顔を見る。やっぱり、赤い。
「なに?」
「……熱、あるんじゃないの?」
「……しょうがない子だなあ」
「なにそれ」
 頬を膨らませて、僕は「魔法使い」の手を取った。手を繋ぐことは緊張するけれど、今は「魔法使い」が心配だった。体が弱くて、熱を出しやすいのだと、「魔法使い」のお母さんが心配げに言っていたことを、僕は覚えている。
ぎゅっと握りしめる。「魔法使い」の体温は、僕よりもずっと低い。低すぎて心配だったけど、今は僕よりも熱い。
「熱、あるでしょ」
「……本当に、しょうがない子だなあ」
 苦笑する「魔法使い」の手をぎゅっと握ったまま、僕は勝手知る「魔法使い」の家に上がり込んだ。
 僕と「魔法使い」の間に会話はない。ただ繋いだ手がすごく熱くて、溶けてしまったんじゃないかと思ってしまうほど。
肩越しに僕と魔法使いの繋がった手を見る。溶けて一つにはなっていなかった。少し残念。……なんて、思わない。そんなことになったら、「魔法使い」は絵を描けなくなってしまうし、僕は両手を大きく振って早く走ることが出来なくなってしまう。
「お邪魔します」
「どうぞ」
 「魔法使い」の部屋を開く。涼しい風が頬を撫でた。
「ベッドに入って」
「はーい」
「薬は?」
「ご飯も食べて、薬も飲んだよ」
「じゃあ、寝て」
「モデルは?」
「熱がさがったらね」
「……泊る?」
「あなたが心細いなら、傍にいるよ」
 声が上擦ってしまった。大好きな人が目の前にいる。大好きな人の家に、一緒にいる。緊張してしまうのは、しょうがない。
 ふふっ。「魔法使い」が甘い微笑みを見せる。美味しい飴玉を舌の上に転がしているような、そんな感じ。
「じゃあ、手はこのままね」
「寝づらいでしょ」
「しょうがない子だなあ」
「しょうがない子はあなただよ」
 呆れて呟けば、「魔法使い」は嬉しそうに声をあげた。僕の頬を、その細くて白い指でつまんだ。
 顔が近くなる。心臓が爆発しそうだった。
「しょうがない子は、君だよ」
 吐息が、鼻の頭に触れる。頬に触れる「魔法使い」の手は、とても熱かった。
 溶ける。
 僕は堪らなくなって、瞼をぎゅっと強く閉じた。
「――ありがとう」
 瞼に、柔らかな感触。
 そのまま、僕は瞳を開けられなかった。肩が柔らかな感触に包まれる。身体が横に倒される感覚。瞼を上げると同時に、ベッドの感触がした。太陽の匂いと「魔法使い」からする不思議なハーブに似た香り。
「おやすみ」
「……しょうがない子だなあ」
 今度は、僕が言う。
「しょうがない子は君だよ」
 瞳を閉じた「魔法使い」は可笑しそうに言って、僕の肩口に顔を埋める。とてもくすぐったくて、心臓が苦しくて、幸せだった。
 耳を擽るのは、「魔法使い」の吐息。
 その吐息を聞きながら、僕は見た。
 壁に立てかけてある一枚のキャンバス。
 一人の少年が、窓縁に頬杖をついて見上げている。星空を見上げているのか。その瞳は宝石のように輝いて瑞々しく、炎のように若々しい。
 ――これは、僕だ。
 驚きが、乾いた身体に沁み渡る水のように、僕の胸の中に広がった。
 
 「魔法使い」も、僕を、見ていたんだ。

 今の僕の顔を「魔法使い」が見たら、こう言う。


「しょうがない子だなあ」――ほら、ね。